「おい、知也。昨日お前、中町の映画館にいただろ。」
同じゼミの中川佑輔の言葉に、俺は「はあ?」と首を傾げた。
「行ってねえけど。」
「嘘付け。一人で映画館に入ってったじゃん。
俺、声かけたのにさー。全然気付かなかったのかよ?」
「いや、だから行ってねえって。
人違いじゃねえの?だって俺、昨日は一日バイトだったもん。」
「マジで?あれ、じゃあ他人の空似ってやつか。
何だ、追っかけなくてよかったあ。人違いだったら恥ずかしいもんなー。」
ホッとしたように胸を撫で下ろす佑輔に俺は、そんなに似てたのか、と訊ねた。
「おう。まるっきりお前にしか見えなかったぜ。」
「へえ、そんなに似てんなら一度見てみたいな。」
そんな会話をしたことを後で後悔するなんて、あの時には思ってもみなかったんだ。
二度目は、二週間前。
「あれ、河合君?」
コンビニでのバイト中、遅番で入ってきた折原真純がきょとんとした顔で俺に声をかけた。
「今日、シフト入ってたんだ?」
「入ってましたけど、どうかしたんすか?」
訊ねた俺に、奥室で着替えてきた折原さんはうん、と首を傾げる。
「さっき、駅前で河合君によく似た人見かけてね。」
「俺に?」
「うん、だから今日は河合君は休みなんだと思ってたら、いるからびっくりしちゃった。」
「そんなに似てたんすか。」
「うん、服装とか髪型までそっくり。」
そこまで話して、俺は前に佑輔から聞いた話を思い出した。
「そういえばこないだゼミの友達にも、同じ様なこと言われましたよ。」
「へえ、そうなの?」
「何かこの辺に、俺そっくりな奴が一人いるみたいっすね。」
その内に遭遇するかもしれないなとも思ったが、まだ、何も気にしてはいなかった。
三度目は、一週間前だ。
「あら知也、早かったのね。」
買い物から帰ってきた母親が、居間に顔を出した。
「それで、トイレットペーパー買ってきてくれた?」
「は?」
何のことかと首を捻ると、母は呆れた風に眉を顰めた。
「さっき、帰りに買ってきて、って頼んだじゃないの。」
「いつだよ?」
はっきり言って全く覚えがない。そう言うと、母は困惑気味に首を傾げる。
「さっき、そこの公園で会ったでしょ。
私はスーパーまで買い物に行くから、あんたは帰るならトイレットペーパー買ってきてよって言ったら、分かったって言ったじゃない。」
「はあ?会ってねえよ。大体俺、さっき起きたんだけど。」
大学祭のおかげで、講義は軒並み休講。サークルにも入ってない俺にとってはありがたい連休だ。
俺の言葉に、母は本格的に困惑を顔に表した。今度は俺の方が呆れた表情を浮かべる。
「母さん、息子と他人を間違えたのかよ。」
常日頃からそそっかしいところのある人だとは思っていたが、そこまでとは。
「でも母さん『知也』って声を掛けたのよ。そうしたら、あんた立ち止まったじゃない。」
「だから俺じゃないって。」
「でも否定もしないで話聞いてたわよ。」
「母さんがまくし立てるから、何も言えなかったんじゃねえの?」
そう言うと、母は「そうかしら」と納得行かない様子で首を傾げる。
「そういや、この辺に俺に似てる奴がいるらしいよ。」
佑輔や折原さんの話を思い出して俺はそう言った――そう言ってから、違和感に気付く。
佑輔が俺に似た奴を見たという中町は、大学のすぐ近くにある。大学からうちまでは電車で30分。結構な距離がある。
次にそいつが目撃されたバイト先の最寄り駅は、うちから電車で二駅の隣町だ。
そして今度が、うちのそばの公園ときた。
「母さん、実は俺、双子だったりしないよな?」
「しないわよ。」
「だよな。」
俺と全く同じ行動圏内に、母親さえ気付かないほど瓜二つの人間がいる、なんて偶然はあるものだろうか。
いや、ないとは言い切れないが、何か気になる。釈然としない。
奇妙な違和感を感じながらも、俺は首を傾げるだけだった。
そして3日前。
「え?……知也?」
家を出て最初の角を曲がったところで不思議そうな声をかけてきたのは、隣の家に住む幼なじみだった。
「よお。」
「あれ?え?知也だよな?」
「なんだよ、おい。」
俺よりも一歳上の幼なじみ良太は、しげしげと俺を見つめて首を傾げた。
「お前、そこの角から出てきたよな、今。」
「だってうちから出てきたとこだもん。何だよ、マジで。」
「俺、たった今、お前と会った。」
「……マジで?」
困惑も露わな良太の言葉に、俺は固まった。
噂の、俺に似た誰か。そいつがたった今、ここを通ったという。
「……おい、知也!?」
「後で話す!」
不意に走り出した俺の背に良太の声がかかる。
だが結局、辺り一帯を走り回っても、そいつの姿を見つけることはできなかった。
「それってさ、ドッペルゲンガーって奴じゃないのか?」
俺の話を聞いた良太が最初に言ったのが、その台詞だった。
「ドッペル?何?」
「ドッペルゲンガー。俺もよく知らないけど、化け物の一種らしい。」
「化け物って、このご時世に。」
呆れたように言った俺に、だって、と良太は肩を竦める。
「自分にそっくりな奴が色んな奴に目撃されてて、しかもその場所がだんだん近づいてきてんだろ?しかも目撃される間隔も短くなってる。
俺の聞いた話にそっくりだぜ。」
「そりゃ、そうかもしれんけどよ。」
頭を掻きながらも、俺の違和感の元が良太の指摘した事柄だと気付く。
「で、その何たらだとして、だんだん近づいてきて最後はどうなんだよ。」
こういう怪談もののオチは大体想像がついていたが、念のために聞いてみると、良太は予想通りの答えを返してくれた。
「自分のドッペルゲンガーに会ってしまうと……死ぬって。」
「それでいくと、俺は近いうちに死ぬってことになんだけど。」
「だから、会わないように気をつけんだって。」
「どうやって。」
「……外に出ないとか。」
「肝心の所でトーンダウンしてんじゃねえよ。」
俺の言葉に、良太はう、と言葉に詰まる。
「でも、しばらくは外に出ない方がいいと思うぜ、俺。」
「んなこと言ってもなー。バイトとかどうすんだよ。」
はっきり言って、ドッペルとか何とかいうのはさすがに飛躍しすぎではないだろうか。
「知也、信じてないだろ。」
「信じられるかよ。21世紀のこの時代に化け物なんてさ。」
「絶対やばいって。俺も気をつけるし、2、3日は外に出るなって。な?」
妙に真剣な良太に、俺は曖昧に頷いた。
俺がついにそいつを見かけたのが、昨日のことだ。
「……え?」
バイトからの帰り家までワンブロックの所まで来た俺は、家の玄関前を歩いていく男の後ろ姿に、思わず足を止めた。
黒のセーターに、ジーパン。こげ茶の安物ジャケット。俺がよく近所を出歩く時と全く同じコーディネートだ。そんな筈はないが、ジーパンの破れ目までが俺の記憶に寸分違わないように見える。
自分の後ろ姿など見たことがないから断言はできないが、確かに背格好も俺によく似ているようだ。
「……。」
俺はその男を追いかけた。気付かれぬよう、ゆっくりと。
そいつは、悠然とした足取りで家の前を通り過ぎ、向こうの角を曲がっていく。ちらりと見えた横顔も、遠目にも俺に似ていると思えた。
「…………。」
そっと、そっと。
そいつの曲がった角へと近づく。
角の向こうを覗こうとして、俺は一瞬躊躇した。その向こうで、奴が待ちかまえているような気がしたからだ。
「……落ち着け、俺。」
小声で自分に言い聞かせ、深呼吸して、そろそろと向こう側を窺う。
「……いねえ。」
どこかの角を曲がったのか、既にその姿は視界になく、ホッとしたような残念なような心持ちで、俺は呟いた。
ついさっきのことだ。
開けっ放しだった部屋の窓を閉めながら、何気なく外を眺めた俺は、その姿勢のまま固まった。
家の前を、男が歩いている。俺の部屋の丁度真下にあたる所を、のんびりと歩いている。
その服装は、昨日と全く同じだ。
夕陽に照らされて昨日よりもはっきりと見えたのは、少し立てた髪型。そして何よりも、その横顔。
それは俺自身が見てすら、俺以外の何者でもなかった。鏡か3D映像としか思えない、俺ではない俺。
唐突に、薄ら寒いものが背筋を駆け上がった。肌が粟立つ。これまで曖昧なものだった恐怖が、現実味を帯びる。
「……!」
不意に、男がこちらを振り仰ぐ気配を見せた。
――目が合ったら、死ぬ。
俺は慌ててカーテンを閉めた。
最初は2週間。次は1週間。そして4日。2日。1日。
俺に似た誰かの目撃談の間隔だ。良介の言うとおり、段々と縮まっている。
このままなら、次は半日後。明日の早朝だろうか。
「それなら、今夜は安全、だよな。」
――でも、パターンが変わったら?あるいは、次に現れるのが俺の目の前だったら?
「やべえよ……」
瞬く間に恐怖心が膨れ上がる。冬でもないのに、寒気がする。
よりにもよってこんな日に限って、母は単身赴任中の父の所に行ってしまった。帰宅予定は明後日の筈だ。
こんな事になると知っていたら着いて行くんだったと後悔しても、もう遅い。
「そうだ、良太。」
ふと思いついて良太の携帯に電話を掛けるが、留守番メッセージが応えるだけ。それなら、と隣家にかけても、長い呼び出し音が鳴り続けるだけ。
「……やばい、やばいって、マジで。」
携帯に登録している番号を端からかける。しかし誰一人として出るものがない。
「……大丈夫、大丈夫だ。他人の空似だ、他人の。」
自分に言い聞かせるように何度も呟く。しかし、それは逆に、恐怖心を募らせるだけだった。
まんじりともしないまま夜が明けた。
夜中電話をかけ続けたにも関わらず、結局誰一人出る者はいない。
「……」
部屋の隅に膝を抱えて蹲った姿勢のまま、そっと目を上げる。
カーテンの隙間から、朝日が射し込んでいた。奴が本当に現れるなら、そろそろその刻限の筈だ。
俺はそっと立ち上がると、窓に近づいた。カーテンの隙間から外を覗こうとした、その時だった。
ガサリ、と音がした。
「……!」
ビクリと小さく飛び上がった俺は、慌てて窓際から飛び退いた。
音がしたのは窓の外、庭の辺りだ。
ガサリ、ガサリ。
規則正しく、草を踏みしめる音。誰かが庭を歩いている。
ガサ、ガサ、ガサ。
裏庭の方から近づいてきた音が、部屋の真下を通って玄関の方角へと消えていく。
「や、やめろ……来るな、くるな来るなくるな」
ガタガタと震える身体を抱え、俺は譫言のように呟いた。
どれくらい経っただろうか。
人の気配が完全に途絶えた頃、俺はのろのろと起きあがった。
日はすっかり高く昇ってしまっている。庭で音がしたのが日の出頃だから、もしかしたら次の出現はそろそろなのかもしれない。
だが、時計を見ると、時刻はまだ午前中だった。
――今の内に逃げよう。
ふとそんな考えが脳裏を過ぎる。
今の内に玄関まで出て、どこか遠くに行ってしまえば、奴だって追っては来られまい。
その考えに背中を押されるようにして、俺は猛烈なスピードで玄関に向かって走った。取るものも取りあえず、慌ただしく靴を履く。
しかし、ドアノブに手を掛けた所で俺は固まった。
――玄関の前に奴がいたら?
「無理だ……。」
玄関の前にいるかもしれない。扉の影で待ちかまえているかもしれない。
その考えが脳裏を占める。覗き穴から外を確かめることすら、恐ろしくてできない。
結局、俺は外に出ることを諦めて、部屋に閉じこもることに決めた。
周囲を窺い、自分一人しかいないことを確かめながら、俺は階段を上がった。
カタンッ
不意に階下から聞こえた物音に、俺は一瞬にして硬直した。
「え……。」
カタカタ、カタンッ
誰かがいる。
居間か台所の辺りだろうか。
俺しかいないはずのこの家の中に、誰かが。
「う……ッ」
叫びだしたいのを必死に堪え、俺は一目散に自分の部屋に駆け込んだ。
「頼む、誰か、誰か出てくれ、誰か……!」
譫言のようにくり返しながら電話をかけ続けるが、相変わらずの留守番電話が、俺の望みを尽くうち砕く。
もはや部屋の外に出ることすらできない。
バリケード代わりにドアの前に机や棚を移動させ、俺はベッドの上でただひたすら電話をかけ続けた。
やがて、陽が傾きだした頃。
トン、トン……
「……ひッ」
ゆっくりと階段を上る足音に、俺は息を止めた。
反射的に布団を被り、蹲る。
トン、トン、トン……
一段、二段、三段、四段……
足音は順調に階段を上る。
ギシ……
階段を上りきった足音は、二階の廊下を歩き始めた。
「くるな、くるなくるなくるなくるなくるな」
ガタガタと歯の根を震わせながら、俺は小声で呟く。
足音が消えても、俺はそのまま、布団の中で震え続けた。
どれくらい、そのまま震えていただろうか。
ふと、布団の隙間から入ってくる光が消えていることに俺は気付いた。
「……?」
暗くなっているということは、あれから大分時間が経ったのだろうか。
パターン通りなら、もう、出現の間隔はほとんどないはずだ。
しかし真暗になっているのに、あれ以来、それらしき物音はしなかった。
「……」
もしかしたら、もう終わったのだろうか。
家の中に人の気配はない。
そろそろと、俺は布団から這い出した。
室内は真暗だった。月の光すら射していない。
手探りでドアへと近づく。
バリケード代わりの棚にぶつかって、大きな音がした。
「……」
息を潜めながら、電気のスイッチに手を伸ばす。
パチン
スイッチを入れる音とともに電気がついて、ほんの一瞬目が眩む。
一度きつく瞼を閉じ、うっすらと目を開けて。
「………………っ!!」
声にならない悲鳴を俺は上げた。
「ぁ……ぁぁ……ぅぁ…………」
部屋の真ん中に、そいつは立っていた。
鏡を見ているような錯覚。俺自身の顔がそこにある。
「ぅぁぁ……く、く、く……」
舌が動かない。嫌な汗が全身から噴き出す。
目を逸らすことができないまま、じりじりと後じさる。
「……ぁ」
ガタン
外からの侵入を防ぐためのバリケードが、俺の脱出を阻む。
行き場をなくして青ざめた俺の目の前で、そいつが。俺が――ニタァーと笑った。
配布サイト様