barricade

カラン、と涼やかな音を立てて、空のグラスがカウンターの上に置かれた。
「静佳さん、もう一杯ちょうだい。」
「……それで何杯目？」
「んー、５杯目、だっけ？」
にっこりと微笑むその顔には、ほろ酔いの兆候すら現れていない。この店で最も度数の高い焼酎をロックで５杯、あっという間に飲み干した男は、のほほんとした表情でグラスを差し出した。

「相変わらず、笠井君はわんこそばみたいにお酒を飲むね。」
静佳の夫の昭雄がのんびりと評した言葉に、あはは、と笠井は笑って応える。
「やだなあ、秋野さん。僕だって味わって飲んでますよ？」
「だめだよ笠井君。わんこそば食べてる人だって味わってるよ、きっと。」
「それもそうですねえ。失礼なこと言っちゃったかなあ？」
どう考えてもどこかずれているとしか思えない会話を聞かないように努めながら、静佳はグラスに焼酎を満たした。

「そういえばさあ。」
グラスを笠井の前に置いて、静佳はおもむろに切り出した。
「最近、成ちゃんとうまくやってるみたいじゃない。」
「……やだなあもう。照れちゃうなぁ。」
あくまでにこやかに、笠井は首を傾げる。
「成川クンてば、静佳さんにそんな話してるの？」
「そりゃあもう。利文の日頃の悪行をすべて漏らさず報告してくれるよ。」
「悪行だなんて酷いなぁ。僕はちゃんと仕事してるよ？」
笠井は、にこやかだが決して内心を悟らせない笑顔を崩さぬまま、グラスを傾ける。
「……こないだ、成ちゃんがね。」
「ん、なに？」
「何でもっと自分にも頼ってくれないのかって嘆いてたよ。」
「…………」
静佳の言葉に、笠井は僅かに目を伏せる。だが、次の瞬間にはいつもの飄々とした表情に戻っていた。
「やだなぁ。僕なんか、成川クンに頼りっきりなのにねえ。」
「……始末書とか、報告書とかね。」
「うわぁ、静佳さんてば辛辣～。」
あはは、と笑う後輩に、静佳は小さく溜息を吐いた。

　ただでさえ、刑事としては型破りな行動のために誤解されがちなこの男を、さらに孤独にしているのが、彼のこうした対応だ。
　これまで彼と組んだ者たちが、長くて数ヶ月、短ければ数週間で彼の元を離れていったのは、ただ単に彼の行動が刑事としての枠を外れているせいだけではない。
　どんなときでも笑顔を崩すことのない意志力と、瞬時に機転の効いた切り返しの出来る頭の回転の速さが、他者の彼に対する理解を拒もうとする。その緩やかなバリケードに、結局、これまで彼と組んだ多くの刑事達が、彼を理解することが出来ず、あるいは理解しようと努めながらも彼を信じ切ることが出来ずに、彼の元を離れていった。

　そうやって自ら望んで他者を拒んでいるくせに、離れていく同僚を見送る笠井は、いつもどこか淋しそうだった。そんな後輩を、静佳は――おそらくは他の刑事達も――何とかしてやりたいと思いながらも、どうすることも出来ずにいた。
「成ちゃんいわく、利文は自分勝手でやることはでたらめだけど、刑事としては間違ってないんだってさ。」
笠井と組んだ者で、そこまで言える者はこれまで誰もいなかった。だからこそ、成川なら笠井のバリケードを抜けられるのではないか、という期待を感じずにはいられない。
「……いやぁ、照れちゃうなぁ。そんなの、僕のこと買いかぶりすぎだよねえ。」
「すぐそうやってごまかす。成ちゃんがそう言ってんだから、もうちょっと信じてあげたら？」
「えー？信じてるよ？」
そう笑って、笠井はグラスを呷る。その時、奥の座敷から客の呼ぶ声が聞こえて、静佳はカウンターを離れた。
「……成川クンは優秀だから。僕なんかの犠牲にするわけにいかないよ。」
背を向けた瞬間、微かに聞こえた声に、静佳ははっと足を止めて振り返る。
「……利文？」
「あー、僕、なんか酔っちゃった。もう帰るね。」
にっこりと、いつも通りの笑顔を浮かべて立ち上がると、笠井は奥にいる昭雄を呼ぶ。
足早に客の注文を聞いて、静佳が戻ったときには、笠井は既に勘定を払い終えて店を出るところだった。
「……いつまで逃げるつもりなの、あんたは。」
のれんを潜って姿を消した猫背の後ろ姿を見送って、静佳は溜息と共に小さく呟いた。

26日の「trust」と対で。
そろそろこのシリーズも本編に入ろうか、それとももう暫く短編で様子を見るか。
大分色々と固まってはきましたが。